何もない毎秒

粛々とやり過ごして過ごす日々に嫌気がさして

ナポリタンスパゲティ

  新橋のポンヌフや神保町のさぼうるなど、私にとってナポリタンスパゲティは洋食屋や喫茶店での出会いから始まった。オレンジ色の麺がどっさりと盛られ、緑のピーマン、オレンジのにんじん、白い玉ねぎの細切りが踊るように麺にまとう。お店によっては、まあるい白と黄色の目玉焼きや赤いソースのハンバーグなど、こころ踊るトッピングも。口に入れるとケチャップの酸味とラードの甘みで、なんとも罪悪感のある美味しさだ。ビジュアルも味も、私の気持ちを2段階くらい上げてくれる。ナポリタンスパゲティにかかわらず、洋食の人の気持ちを上げる力はすごい。黄色い卵に赤いケチャップのオムライス、元気なフォルムでぷりぷり食感のエビフライ、添え物だって真っ赤なプチトマトや黄色いコーンに緑のブロッコリーなど、日本人の大好きな奥ゆかしさに迎合しない騒ぎぶりだ。洋食を目の前にすると、子供にかえったような解放された気分になる。それでいいのだ、とナポリタンスパゲティは私を肯定してくれる。

  私に家族ができたら、誰かが落ち込んでいる時や大変な時にナポリタンスパゲティを作ってあげたい。ナポリタンスパゲティに励まされ、友となり、母の味として持たせてあげられたら、それは1つ、私の人生が誰かの役に立つ時だろう。そんなことを考えながら、今日も一人で自分で作ったナポリタンスパゲティを食べる。今日も美味しかったです、ごちそうさまでした。

幅1mの直射日光

  私の部屋では、直射日光はとても貴重だ。正午から2時間と夕方2時間程。目の前のビルの向こうを太陽が通りながら、私の部屋を照らす。幅1mに満たないぐらいの光が床に射す。観葉植物たちの日光浴タイムが始まる。小さな観葉植物が2つ。アロマティカスといういい香りがする肉厚なやつだ。光が射してる場所を探りながら、アロマティカスを置き、光が移動してしまったらまた置き直す。まんべんなく光を当てるために、鉢も回転させる。動かす度にふわっと香りが広がる。だんだんと太陽の方向に葉を広げて、ここぞとばかりに太陽光を得ようとしている。日照時間の短い部屋でもたくましい。

  私もその側に座って、直射日光を少しおすそ分けいただく。脚の先から膝くらいまでが日に当たる。脚がじわっと温まっていく、とても気持ちが良い。肌寒い部屋の中で、私の脚とアロマティカスだけが心地よい温かさを享受する。気持ちものんびりしてくる。スーパーに行くのは明日にしますか。

  もし猫がいたら。もし良く日の当たる部屋に住んでいたら。もし体いっぱいに日を浴びながら一緒に昼寝が出来たら。こんな気分なのだろうか。日の当たる場所に身を寄せる、なんの気も使わない、子供の時の友達同士のようだ。次引っ越す時は、南向きの大きな窓がある部屋にしよう。その時に私に寄り添ってくれるのが、このアロマティカスか猫か、はたまた新しい家族が出来ていたり、想像は広がるが、少なくともこのアロマティカスだけは連れていけるようにしたいと思う。また明日からも一緒に日光浴をして、すくすく成長してほしいものだ。

色気つきだした、おばさんの入り口

  自分磨きなどと言うものをしたのはいつだろうか。はっきりと覚えているのは、高校生のころ。ダイエットの為にランニングしたり、ファッション雑誌を読み、休みの度に買い物に出かけていた。そのころは外見を良くする事で得られるメリットがあって、そのために頑張っていた。大学を卒業して、働き始めて1年目くらいまではそんな気持ちもあった気がするが、ここ6年くらいはそんな気持ちとは自然と距離を置いていた。結果手に入れた、鈍い体型、首のシワ、学生レベルの化粧スキルと冴えないクローゼット。鏡を見なければ、私がどんな状態かなんて分からないものだから、たまに鏡に映った自分が目に入りなんとも言えない気持ちになる。

  そんな私が、半年前から今の自分に合うスキンケアを探し始め、今はダイエットにチャレンジしたいと思っている。なんという変化だろう。何かきっかけがあった訳ではない。ただ、そういう事で自分の機嫌を取り、自信を付けないと立っていられないようなところまできた。私の生き方が原因でもあるし、年齢もあるだろう。私の肌や体型という、人様には何ももたらさない個人的なもので日々自分のご機嫌取りをしている。悪くは無かろう。ダイエットに成功した暁には、素敵な洋服を買いたいと思う。

  だけれど、何故今まで自分自身をこうやって放置していたかということを考えると、会社で働き出し、外見がもたらす色々な事にうんざりしてしまっていたからだ。そして、外見的主張をしない方が安全だと思ったからだ。だが今は、少し主張をしながら、安全ではない場所で生きていく図太さや、一種の諦めのようなものを身につけた。色気つきだした、おばさんの入り口。

何もない毎秒

  私には、趣味も無ければ、得意なことも、人に喜んでもらえることも無い。小学生の頃から、休み時間をやり過ごし、放課後をやり過ごし、一年後のクラス替えまで、ただ粛々と毎秒をやり過ごしてきた。あと一年、また一年と働き、寝て、食べて、31歳になる。布団乾燥機をかけた後の布団の熱に足を暖めてもらいながら、ひとときの快適さを味わう。

  小学生の時は生きることに疑問を持つこともなかったが、今の私は生きることも生きないことも自分で選ぶことが出来る。いつそんな選択肢を手に入れたのかは覚えていないが、いつのまにか自分の毎日が自分のものになったからだろうか。だけれど、ご飯の時間になったらきちんとご飯を食べ、面倒くさいと思いながらも1日1回はお風呂に入る日々は自分の毎日とも言い難い。ただの、ある31歳日本人の毎日がそこにあるだけだ。

私は何もない1年、1ヶ月、1日、1秒を粛々とやり過ごしている。だけれどそれは望んだ事でも、満足している事でもない。抜け出すためにもがいた事も数知れず。しかしどうにもできない、すっかり疲れてしまった。そして、抜け出すなんて事は出来ないと悟った。ただ、これ以上深く沈み込むのはごめんだ。ここでアメンボのように水面で踏ん張る私の、何もない毎秒に何かがあると信じたい、31歳の戯言を聞いてほしい。